夜逃げと掃き溜めの暮らし
皆様お疲れ様です
私の盆休み、夢のような日々も虫も息です
明日からはまた日常が始まり、夜の蝶へと戻ります
それとは裏腹に、緊急事態宣言がまたもや延長されそうな雰囲気で話し合いをされているようです
あまつさえ追加で発出される地域もありそうで、パンデミックが始まる前の世界の事を朧げにしか思い出せなくなりそうです
しかし、生きている以上は必ずその時々でネガティブな要素や辛い事を背負いながら人生を歩んでいるのではないでしょうか
そして、その殆どは何年も経過した後に教訓になったり笑い話として語られます
当記事では私や家族、主に母親が乗り越えてきた軌跡の一部を記していきます
普通の箱入り娘が夜逃げする事になった
私の母親は堅実で人格者の祖父母の次女として佐賀県で生まれた
祖父は早くに父を亡くし、長兄として家庭や何人もの弟妹を養うべく中学を卒業するや否や炭坑夫となった
仕事中の事故で左足の親指を切断、生コン会社の事務員になる
大戦ではシベリアにて捕虜となり、明日の命の保証はない日々を送る
簡単にですがこんな過去を越えてきた祖父でしたが、2014年に他界した
祖母や伯母は今も有難い事に健在だ
そんな普通の家で大切に育てられた母は、父の元に嫁ぐ事になった
当時病院の事務員として働いていた母、怪我で入院してきた父に口説き落とされたようだ
なんと趣味の悪い女か(笑)
老舗練り物屋の社長としての肩書きがあった父だが、その経営の破綻は時間の問題で、今はもう亡きヤクザじみた父の兄や姉の責が大きかったそうだ
だから嫁いですぐに嫁入り道具も婚約指輪も質屋に入れられ、長崎から博多へと夜逃げした
博多では六畳とと四畳半の二部屋のアパートに祖父母と伯母、両親と私の六人で住み、母は私が生後三ヶ月から夜の街に働きに出された 伯母と一緒に
有名な中州の街ですね
なので私はなかなか会えない母に懐かず、母は毎日のようにトミカを買ってきては私の気を引いていたそうです
私が車やバイクが好きなルーツはそこにありそうですね
そしてそこでたまたま出張で東京から来ていた建設会社の所長と伯母が不倫関係となり、母の両親親戚を九州に残し家族総出で上京するに至った
二度目の夜逃げというわけだ
おんぼろプレハブ飯場での暮らし
上京は私が二歳の時だったが、移った場所は杉並区の高井戸だった
そこには多くの土木作業員(ドカタと呼ばれるものですね)が生活をしていて、汚い共同風呂に共同便所、共同の食堂が併設されたおんぼろのプレハブ長屋だった
風が吹けばガタガタ揺れ、夏は暑く冬は極寒、頻繁にどこかで喧嘩の怒鳴り声が聞こえるような掃き溜め、そんな場所の狭い家族部屋を割り当てられた
父と父方の祖父は工事現場で働き、母は事務員として働いた
結局このプレハブ長屋に小学校三年生まで住んでいたが、二回ほど移転している
その一回目で埼玉県に移ってきて今も埼玉人という事です
幼い頃からこんな掃き溜めに住んでいたが、確かに夜の便所は怖かったし虫はよく出たし、住宅街から離れた田んぼの真ん中に建てられたプレハブだったので友達と遊んだり通学するのには遠くて不便でしたが、当の本人はそれが普通だったので悩みもせずに悠々と育ってきた
多くの作業員さんは遊んでくれたし、刺青入った人を遠山の金さんだと追いかけ回したり天真爛漫に成長した
故に私は自分を不幸だとか思った事はない
昭和風情の汚い居酒屋とか古民家とかが好きなのは、この影響かもしれませんね(笑)
母が越えてきたもの
中州に勤めていた頃から母の稼ぎは自分に入る事はなく義家族に奪われてきた
それは関東にきてからも変わらずに、私が中学に行く頃には内職と同時に夜の商売に行き始めた
それでも伯母の借金取りが来たりした
伯母と連帯保証人になっていた父が逃げ出してしまったのが原因だ
そんなものからも私や弟たちを守るべく身を粉にして働き続けた
私史上最強の女と形容するのはこういった数々の苦労話に起因している
両親は離婚してしまったが、この負の連鎖が我々息子たちに及ばぬように縁を切ったってのが大きな理由だった
斬り結び
私のたった41年の人生、これは一部の抜粋に過ぎないが…
母もばあちゃん達も過去の苦悩の日々を語る時に悲壮な表情はしていない
穏やかに、笑い話として言い聞かせてくれる
そしていかに底辺と思われるような暮らしをしていても、誇り高く生き幸せを掴むことはできる
私や私の家族の拙い軌跡が今の現状に悩む人々の心を少しでも勇気づけられれば幸いです
きっと何年か後には、今悩んでいることも朧げになり
笑い話として語る日が来るはずです